4月27日(金)
昨年10月、市川房枝記念会から解雇された2人が、東京地裁に提訴してからはや半年、この間3回の公判があり書面のやり取りがありました。3月12日の第3回目の公判では、原告側代理人からの提案で証人尋問のための準備のための打ち合わせをすることになり、今日はその打ち合わせの日です。これは傍聴をすることが出来ませんが、その前に市川房枝ルネッサンス(市川房枝記念会の不当解雇を撤回し婦選会館を再生させる会の略称)の仲間たちが裁判所前でビラまきをすることになっているので参加をしてきました。
「市川房枝ルネッサンスです。このチラシをご覧になってください」と声を掛けながら手渡すと多くの方が受け取ってくださいました。女性ユニオンの方々が入れ替わりハンドマイクで市川記念会の実情を訴えていたので興味を持たれたのかも知れません。きれいなチラシが功を奏したのか知れません。それにも増していまなお『市川房枝』に関心を持ってくださったような気がします。保存用に1枚とっておこうと思ったチラシまでなくなってしまいました。
さて今日の裁判官と原告・被告の打ち合わせは民事11部であったのですが、裁判所13階の廊下に椅子が置かれていてそこが待合い場所になっています。事務員に呼ばれて原告側はOさん、Mさんと弁護士さん3人、女性ユニオンの方2人。被告の市川記念会からはいつも裁判の傍聴席にいるY常務理事の姿は無く、弁護士さん2人のほかになんと、記念会の経営コンサルタントという方が打ち合わせの部屋に入っていくではありませんか! 公益性を持つ団体なのに、経営コンサルタントが表に出てきてはおしまいよ、と思うのは私だけでしょうか。
( 裁判や打ち合わせの内容は、市川房枝記念会組合ニュース・市川房枝記念会の未来を語る会のホームページ、ブログをご覧ください)
4月30日(月・振り替え休日)
今日は「自由と生存のメーデー07 プレカリアートの反攻」の集会とサウンドデモに参加。
プレカリアートとは不安定な階級、反攻は守勢にあったものが攻勢に転ずることと申しましょうか。
集会会場には「婦選会館を本来の姿に!」の署名用紙を置かせてもらいました。デモでは1921年(大正10年)の第2回メーデーに初めて女性が参加した赤瀾会の複製旗(黒地に赤で WR ― RED WAVE ― と書かれている)を掲げて、大久保、新宿界隈を歩いてきました。
若者の企画らしくサウンドDJ車を先頭に、小躍りする人、時給を上げろなどと叫ぶ人など、思い思いの意思を元気にぶつけていましたが、私はただ小旗を掲げ、黙々と歩きました。かつて中野好夫先生が原水爆禁止運動の広島・長崎行進で隊列にまじってご自分の戦争責任を問いつつ黙々と一人歩いていらした姿をとても美しく思ったので、デモに参加するときはいつも真似をしているのです。それが私の意思表示です。
5月1日(火) 今日が、本当のメーデー。
最近、我が家の写真を整理していたときに、市川先生をはじめ婦選会館の職員と共に絵画館近くのメーデー会場で撮った写真が出てきました。
多分、1961年か2年頃だと思います。今の婦選会館建設のため、市川先生のご自宅に建て増ししたところに仮事務所がありました。狭いところでしたから、息抜きにメーデー見物に行こうということになったのだったと思います。建設募金の会計実務をしていらしたBさん、出版担当のKさん、Mさん、主に英文を担当されていたFさん、先生の秘書だった旧姓Oさん(現Kさん)アルバイトの私。そうそう現常務理事のYさんも写っています。大学で労働法を学んだというYさん、この時、労働者、労働運動をどうように感じていたのでしょう。
晩年の市川先生の5月1日は、参議院議員会館におられることが多かったです。
この日は、国税庁の高額所得者の発表の日でもあったので、前日にマスコミから「政治家の所得について談話がほしいから」と所在確認があるので、議員会館に待機しているのです。先生は4階の議員室の窓からメーデー行進を見ていました。お昼になると「少し歩こうか」といって新橋駅近くの土橋コースの行進の列に加わって、霞ヶ関ビルまで行き食事をするという慣わしになっていました。
先生の自然体のメーデー参加でした。
5月3日(木)憲法記念日
今日は、地元の9条の会(平和を育てる地元9条の会)の呼びかけで、最寄り駅から区役所のある区内中心地N駅前集会までのピースウォークに参加。沿線の各駅から合流して参加者が増えるのがうれしい。区の9条の会の呼びかけ人である市民運動家・市川記念会M理事長にお会いできたら、婦選会館のようすを伺いたいなと思っていましたが、お姿はありませんでした。無念。
歩きながら、市川先生が結婚のお祝いによく「憲法 第24条 夫婦同権」と色紙に書かれていたことを思い出していました。
家に帰って、日本婦人有権者同盟機関紙1946年10月号の主張欄「新憲法の成立と婦人」を読む。そこには、日本国憲法第14条、24条、44条を掲げ「男女平等を實現する根本要件は、婦人の實力、婦人の教養を、私共は此の機會に再認識し、すべての努力はその方向に向けられねばならぬ事を強調するものである。」と結んでおられました。
続いて機関紙を見ていると、1962年11月号の機関紙の主張欄に「婦選会館と有権者同盟」と題して婦選会館の事業計画について「第一には婦人の政治教育、公明選挙、理想選挙の普及徹底となっております。それ故に自治省の所管となった次第です。この目的事業は日本婦人有権者同盟と同様なので、実施する時は、両者と理想選挙普及会も加えた三者の共同主催とすることにしたいと思います。」「婦選会館は有権者同盟に事務所や集会の場所を提供し、調査、研究や、図書室を利用していただいて同会の発展に協力しようとするものです。若し同盟の会員が増加し、現在の事務室が狭くなったら拡張することも可能です。」と婦選会館の理事長であり同盟の会長であった市川先生は書いておられます。
事業の目的を力を合わせて達成しようとする、私欲の無い先生の気迫に改めて触れました。
5月11日(金)
友人から「『女性展望』5月号読んだ?」と電話あり。この5月号の最終ページ「婦選会館から」は3月31日に開催された市川記念会の理事会、評議員会でのM理事長のあいさつが載っています。「婦選会館は、近隣周辺の開発問題が新たに浮上し、耐震補強・改修工事の資金調達問題もあり、当面着工を予定していませんが、引き続き調査、検討を行ってまいります。」「来る11月には財団創立45周年を迎えます。財団の存続と再出発に向けて努力してまいりますので、この上のご支援、ご協力をお願い申し上げます。」だと。
誰に向かって理事長はあいさつをなさっているのでしょう。理事、評議員は記念会の事業の決定機関でしょう。ある一部の人で着々と事を進めているからこんな言葉が出てくるのですね。理事、評議員の個々の方々は記念会の現状を本当に把握しておられるのでしょうか。お一人お一人のご意見を伺いたいものです。現体制での再出発のどこに希望がもてるのでしょうか。
近隣周辺の開発?。以前婦選会館に張られた養生ネットをみて、「あの形で会館を晒しているのは、広告塔の役目をしているのかもしれんぜ」と言った人がいました。なるほど、廃墟同然にしておけばゼネコンが飛び付いて来るというわけでしょうか。
だから、先日の裁判の打ち合わせに記念会の経営コンサルタントのご登場と相成ったのでしょうか。
色々思い当たる疑問が出てきます。
このページの理事長の言葉の中によく、「誠実に」とか「財団存続」という言葉がでてきます。何に対して誠実なのか。財団存続の中味は何か。注目していくことにしましょう。
5月14日(月)日本国憲法の改正に手続きに関する法律成立
「今、政府・与党が企んでいることのやり方と市川記念会のやってること同じじゃない!」と吐き捨てるようにいった友達の声が耳に残っています。
事ほど左様に、耐震診断、婦選会館の使用禁止、有権者同盟への立ち退き要求、職員の退職勧告、解雇、事業の“特化“、縮小・・・と決めながら、しゃあしゃあと、耐震補強・改修工事は当面の予定はしていませんと言ってのける手合い、そして近隣開発の浮上を持ち出し、そこに相乗りすることを匂わせるとは、全くその様相です。記念会の確たる信念はどこにいったやら。
5月15日(火)沖縄復帰の日、市川先生のお誕生日
今日は、市川先生とは一度も面識がない方ですが、婦選会館のことをとても真剣に考えてくださる方とお会いしました。これは先生のお引き合わせでしょうか。
ここで、銀座の交詢ビル(財・交詢社のあるビル)も耐震診断の結果を理由にテナントの立ち退きが問題になったことを伺いました。耐震診断は本来人の安全に配慮しての対策ですが、排除の手段に使われることが多々あることが解りました。それに加えて市川記念会は職員の解雇までやってのけたのです。
交詢社には思い出があります。1966年、評論家中野好夫氏、政治評論家長谷部忠氏と市川先生の3人を代表幹事とする学者、研究者、学識経験者で政治資金規正協議会という会が結成されました。その2年ほどたった時でしたか、佐藤栄作内閣が第5次選挙制度審議会の答申を得て政治資金規正法改正案を提出して来たとき、同協議会はザル法の政府案に反対声明を出すことになって、その声明文の原案を長谷部先生がお書きになり、私が原稿を戴きに伺ったのが交詢社でした。
その原稿には「このような得手勝手な法案は、政治資金規正の野放図化を助長するものであり永久に抹殺すべきである」と書かれていました。交詢社の教養に満ちたサロン、重厚な趣きのなかで宝物を戴いたような気分で帰ってきました。
最近、ラジオを聞いているとよく「千の風になって」という音楽が流れてきます。
♪お墓の前でな泣かないでください。♪眠ってなんかいません。♪千の風になっておおきな空を吹きわたっています。
亡くなられた方々の想い、そしてその方々が遺された言動が、今を生きている者に影響を及ぼしているようで、初夏の気持ちよい風を受けているこの頃です。
しばらくブログをお休みしていました。
そのわけは、婦選会館の耐震問題の正当性を私なりに少し調べてきちんとした考えを述べてみたいと思っていたのですが、ひどい風邪で怠け癖が着いてしまって、こころならずもご無沙汰をしてしまいした。
そんなこんなをしているときに、3月22日、日本婦人有権者同盟でながいこと事務局でご苦労をされた、H・Tさんが亡くなられたとの報に接しました。病気で退職を余儀なくされましたが、最後まで中央委員として有権者同盟に関わりを持ち、同盟を愛していらした方でした。
Hさんは同盟の大田支部に所属され私も同じ支部の会員でした 。初めてお会いしたのは1965年の市川先生の参議院議員選挙の時でした。当時先生は東京地方区での選挙で各地の支持者が道案内を買って出て選挙カーを動かしました。私はその選挙カーの車長、Hさんは道案内と“うぐいす嬢“役で一日一緒に過ごしました。拠点拠点を要領よく押さえた演説場所選びの手際のよさや、理想選挙の意味、意義を説くHさんの話術と、マイクによくのった聞き心地のよい声は今でも覚えています。その数年後に同盟の事務局に入られ、30余年、事務局の仕事全般に亘っての地道な働きは運動の大きな支えでした。
事務局としてだけではなく、常任委員としても同盟らしい運動をよく心得ておられ、殊に法律を学んだ知識を生かし選挙制度の問題に力を注がれ、定数是正問題、最高裁裁判官の国民審査のあり方などに対しては同盟の生き字引的存在だったのです。
それにすこぶるアイディアウーマンでした。衆議院に小選挙区が導入された1996年10月20日の選挙のあとのことでした。Hさんから「有権者の一票は活かされいるか、当選した議員の支持率を調べたいので一緒にやろう」と話がかかりました。「ああ、面白そう」というわけで、2人で300選挙区の300人の当選者が、その選挙区の有権者からどの程度の支持を得たのか、逆に言えばどれだけの有権者が議員を送り出せたのかという調査をすることになりました。
その結果、簡単に言えば、最低の支持率で当選したのは静岡1区の13.2%、最高でも富山2区の50.7%、全国平均26.2%の支持しか得ていないことが解りました。政党別にみても小選挙区では自民党22.4%、新進党16.0%、民主党6.1%、共産党7.3%、社民党1.2%…、比例区では自民党18.6%、新進党16.0%、民主党9.2%、共産党7.4%、社民党3.6%…という支持率でした。
これで、いかに死票が多いこと、また選択肢が少ないことで有権者の一票が活かされていない選挙制度だということが、数字を持ってわかりました。
役所の発表する候補者同志の得票率よりはるかに有権者の立場に立った、支持率(Hさんは代表度ともいっていました。)という計算方法を、Hさんは考え出したのです。
また、Hさんはこれを同盟の総会で会員に説明するために、おおきな画用紙を折ったり曲げたり伸ばしたりして説明したことが目に浮かびます。
その後、何回かの選挙で調査を重ねました。この支持率という言葉は同盟会員だけでなく、同盟の運動を通してもっともっと一般に浸透させ定着させていいのではと思います。
2002年2月、参議院憲法調査会で『国会の在り方と二院制』をテーマに公聴会があった時に、Hさんは公募に応じて公述人に選ばれました。すでに大きな病を抱えていらっしゃいましたが「私は一有権者として国会に対する一般の声を述べてみようと思いました」と語り、参議院議員選挙にみられる民意の反映は、有権者の政党に対する支持率と政党の獲得する議席率が比例しておらず、有権者の意思が正しく反映されていないこと等、調査をふまえた持論を披瀝されました。この熱意には頭が下がる思いで傍聴していた私の胸にグッとくるものがありました。
いつもコツコツと机に向かって仕事をしていましたが、時には舌好調の駄洒落の連発で、まわりの人をなごませる一面もありました。長い病気と付き合いながら、山登りをし、語学勉強を兼ねて中国旅行に出かけたり、多くの仲間たちとの付き合いも実に楽しそうに参加されていました。
そういえば私に市川記念会に組合が出来たことを教えてくれたのはHさんでした。おなじ屋根の下で働いている仲間として折々に記念会のことを話題にしていました。
ここ1年半ほどお会いする機会がなく、記念会の職員の解雇問題や婦選会館の立ち入り禁止、それに伴う有権者同盟がおかれている現状は手紙などでお伝えしていましたが、ゆっくり話し合う時を持てなかったことが残念でなりません。病から開放された今、静かに見守っていていただきたいと切に願っています。ひとまずさようなら、Hさん。
まずは、左の書をご覧ください。1月7日、あらためてこの書を見ながら、かつて私が、ある冊子に書いた冒頭部分をまずご紹介したいと思います。
「婦選実現の春」市川房枝先生のこの書を見ていると、しみじみとした喜びが伝わってくる。
長い戦前の婦人参政権獲得要求運動を経て日本女性がはじめて「参政権」を得たのは、終戦の年、1945年12月17日、衆議院議員選挙法の改正が公布されたことによってである。婦人参政権、すなわち選挙権および被選挙権を女性がはじめて行使したのは翌46年4月10日のことである。
市川先生が、この「婦選実現の春」と書かれたのは、その46年のお正月7日、千葉県山武郡蓮沼村でまだ疎開生活をしていた私の母を訪ねてきて下さった時のことで、敗戦から5ヶ月もたっていない時である。市川先生と母はお互いの無事を確かめあい、ポツダム宣言受諾して以後めまぐるしく変化していく日本の状況と行く末を語りあったにちがいない。
そして婦人が参政権を得たことの喜びと希望と今後女性は何をすべきかを市川先生は力強く語られたであろうことが目にみえるようだ。・・・(『えぽっく・めいかー』7、1995年3月)
この書から今年は61年目。今年の「春」に希望があるのだろうかと考え込んでしまいます。
今年いただいた賀状には、市川記念会問題に対する一筆を書き添えられていらっしゃる方がたくさんおられました。「思えば思う程、会館の目指すものが理解できないのです」「行く末を案じております」「同盟はどうなるのでしょう」「よい結果が出るといいですね」「内輪もめをしているときではないのに、残念です」などなど。皆さん心配しておられるのだなあと改めて感じ入りました。この声、この思いを市川記念会の理事さん、評議員さんたちがどう受け止めるかが今年一番の課題です。
お正月、ひとつ嬉しいことがありました。若い友人たちが、アメリカの女性とフィリピンの男性をつれて我が家を訪ねてきてくれました。ささやかなおせち料理を喜んでくれ、一時の酒宴で盛り上がりました。
「ところで、彼女に婦選会館のこと話してあげてくださいよ」と、私にこのブログの立ち上げ方を教えてくれた彼にうながされ、私はアメリカ女性にひとしきり市川記念会のことや、市川先生がアメリカの婦選運動の指導者のアリス・ポールに出会ったことなどを話ました。
「ワタシモ、ショメイシテイイデスカ。アメリカニカエッタラミンナニイイマスヨ」と達者な日本語で元気に彼女は言ってくれました。続いてフィリピンの彼も屈託なく署名をしてくれました。バンド仲間をもつ日本の女性も、近い日にみんなが集まるからと署名活動を引き受けてくれました。
なんと気持ちのいい人たちでしょう。国は違っても、立場を超えてすぐに自分の問題として捉え、みんなの問題として考えて行動に移そうとする若い人たちに接して、一人でも出来る活動の根源として見習わなくてはと思いました。
女性団体のみなさん、そして記念会のあの人に睨まれたくないと思っている方、記念会と同盟の問題だ、労使間の問題だと捉えておられる方々、どうか本当の「婦選実現」の拠点である婦選会館を私たちみんなの手に取り戻そうではありませんか。
今日は、1月8日、成人の日です。この日を「新有権者の日」と意味づけたわけを再確認しようではありませんか。
12月25日午前、婦選会館を本来の姿に!署名活動連絡網世話人のYさん、Mさんと私の3人は、市川記念会仮事務所に、皆様からお預かりしていた111名分の署名を届けにいってきました。
仮事務所のドアがほんの少しあいていたので、どなたか居られる筈なのに、チャイムを押してもどなたもでてきません。ドアをたたくとやっと隙間からお顔がみえました。でもその方は、それ以上ドアを開けることはありませんでした。
Mさんが「あら、Sさんじゃない」というので、改めてお顔をみると、かつて日本婦人有権者同盟の職員でいらして、後に時々婦選会館でボランティアで手伝っておられた方でした。今は、退職勧奨や解雇された職員のあとの仕事を補っていらっしゃるようです。
昔から変わらぬお顔はにこやかでしたが、拒絶の姿勢がありありでした。
「話を伝えてください」「何も解りません」のやりとりをドア越しに繰り返してしていると、薄暗い廊下を事務局長が歩いてくるのがみえました。事情をはなすと「どうぞ」と事務所の中に入れてもらえました。立ったままでしたがしばらく私たちはそれぞれに思いを事務局長に伝えました。事務局長からは「理事会が決めたことですから」との言葉が返ってきました。
そう、その理事会で決めたことの再考を促す署名を今日まで全国から集め、それを届けに行ったのです。2回目に署名を届けたあと理事長から「後日行われます理事会、評議員会で皆さまにご紹介いたします。」との書面をいただいていたのでさらに「理事会、評議員会で検討されたのか伺いたいと、理事長にお伝え願いたい」と頼んできました。
8月、解雇された職員が、仮事務所に就労の意思表示と私物を取りに行ったときには、常務理事がドアチェーンをつけたまま顔を覗かせ決して中に入れなかったと聞いたことを思い出しました。この日は、Yさんがドアを閉められないように、ちいさな足の靴が一生懸命ドアを抑えていたのを後ろで私は見ていました。帰途、Yさんに「悪徳、新聞購読勧誘員の要領だったわね」といって笑ってしまいました。このような市川記念会の対応は、なにやら物悲しくかつ滑稽な光景でありました。
今年も残り少なくなりました。風邪気味だったり、怠け心も含めて何やかやあって、すっかりご無沙汰してしまいました。
まとめて日記風に振り返ることにしました。
12月5日(火)
いよいよ「市川房枝記念会の不当解雇事件」の裁判が始まりました。第1回審理は、本日午後4時、710号法廷で行われ、私は緊張しながら傍聴をしてきました。710号法廷は50席あり、他の法廷より少し広いところのようです。原告側の席には原告のMさん、Oさんと弁護士さん2人が着き、被告席に市川記念会の弁護士さん2人のみで理事長の姿はなく、被告席に近い傍聴席の一番前に常務理事が控えていました。まず、原告弁護士さんの訴状の説明があり、続いて原告2人の意見陳述になりました。Mさんの陳述を聞きながら、職員に対する記念会の無情・非情さが伝わってきました。Mさんの感情を押し殺したような言葉一つ一つにに記念会の理不尽さがにじみ出ていました。
この時、ふと、市川先生が亡くなられて、3人の民主政治をたてなおす市民センター職員と秘書2人、計5人が失職することになった時のことを思い出しました。センター職員の1人はK常務理事の引きで、秘書の1人はどのような話で決定したか解りませんが当然のように当時の財団法人婦選会館の職員になりました。私に対しては、市川先生の冨士霊園へご遺骨を納めたその日に、常務理事であり、先生亡き後、理事長職務代行になられたWさんから、私の今後を聞くでもなく「あなたのペイは、出せません。」と引導をわたされました。ああ、市川先生が亡くなられればこんなものかと思いながらも寂しくもあり、いったいなぜ、私がこのようなことを言われなければならないのかと抗議をしました。もっとも、市川先生の亡くなられた直後の婦選会館の空気は、一部の人が作り出した異常なもので、私は、はなから再就職を願い出る気持ちはありませんでしたが、Mさんの陳述を聞きながら、今日もそれを引きずって、一部理事らの意に添わない人を排除する姿勢があることを思い知らされました。
Oさんは陳述の最後を「婦選会館を次世代に継承していくことは、婦選会館を拠点として活動してきた者の責務ではないでしょうか。私はそのために職務に復帰する日を待ち望んでいます。」と力強く結びました。直接、市川先生と接したことのない彼女たちが、市川精神をきちんと受け継いでいてくれることに、わが身の不甲斐なさを思いつつ感謝の気持ちでいっぱいになりました。
(この日の裁判審理の様子は、『市川記念会の未来を語る会』のブログに全体のことが、『市川房枝記念会くみあいニュース』ブログに原告2人の意見陳述の全内容が掲載されていますので、左記からリンクしてご覧になってください。)
次回裁判は、2007年1月29日(月)午後1時15分 東京地裁 710号法廷です。是非、傍聴を。
12月12日(火)
あさ、新聞をめくると、すぐ広告欄に「市川房枝」の文字が目に入りました。
「週刊朝日」12月22日号、ワイド この人たちの「一分」として「市川房枝記念会で起きた女性『不当解雇』騒動」とあるではありませんか。
一体、だれの「一分」が書かれているのでしょうと急いで購入、早速目を通しました。「故・市川房枝氏は何を思う・・・記念会で女性職員解雇紛争」という見出しでした。週刊誌というものは、何を書かれるのかちょっと心配なところがあり、当事者にとってはちょっとした内容にも不満が残るものですが、この記事を読んで、記者が裁判を傍聴しているらしいことと、えげつない記事でなかったことに一安心。にこやかな先生のお顔が婦選会館の写真と一緒に載っているのをみて「先生の大岡裁きが頂きたいですよ」と話しかけました。
12月14日(木)
朝食がすんでしばらくすると電話が鳴りました。「週刊誌見ましたよ。裁判は長引くのでしょうか。いい結果がでるといいですね。」
「市川記念会理事さんたちも、も少し若い人と代替わりをしないと」「講座がなくなって、勉強が出来なくなっただけでなくみんなと話をする機会がなくなり寂しいですよ」などとたてつづけにおっしゃり電話は切れました。記念会のやり方に憤懣やるかたなき感情が抑え切れなかったのでしょう。
12月17日(日)
今日は婦人参政権獲得記念日(1945年12月17日衆議院議員選挙法改正公布による)
会合があって久しぶりに外出。女性団体の会ではないのに、週刊誌の反響はたいしたものです。会う人ごとに声を掛けられました。
「市川さんとこ大変そうね」「どうなっちゃったの」「私も集会や勉強をしに行ったのでとても残念」「困ったはなしだね」「あなたは大丈夫なの」・・・いったい何人の方と話をしたことでしょう。今日の会は、ある詩人を偲ぶ会だったのですが、私のまわりは、しばし、市川談議や、耐震問題、職員解雇の話などの輪ができました。私も、私なりの「一分」を披露しました。
記念会にも納得できる「一分」を期待したいですね。