4月27日(金)
昨年10月、市川房枝記念会から解雇された2人が、東京地裁に提訴してからはや半年、この間3回の公判があり書面のやり取りがありました。3月12日の第3回目の公判では、原告側代理人からの提案で証人尋問のための準備のための打ち合わせをすることになり、今日はその打ち合わせの日です。これは傍聴をすることが出来ませんが、その前に市川房枝ルネッサンス(市川房枝記念会の不当解雇を撤回し婦選会館を再生させる会の略称)の仲間たちが裁判所前でビラまきをすることになっているので参加をしてきました。
「市川房枝ルネッサンスです。このチラシをご覧になってください」と声を掛けながら手渡すと多くの方が受け取ってくださいました。女性ユニオンの方々が入れ替わりハンドマイクで市川記念会の実情を訴えていたので興味を持たれたのかも知れません。きれいなチラシが功を奏したのか知れません。それにも増していまなお『市川房枝』に関心を持ってくださったような気がします。保存用に1枚とっておこうと思ったチラシまでなくなってしまいました。
さて今日の裁判官と原告・被告の打ち合わせは民事11部であったのですが、裁判所13階の廊下に椅子が置かれていてそこが待合い場所になっています。事務員に呼ばれて原告側はOさん、Mさんと弁護士さん3人、女性ユニオンの方2人。被告の市川記念会からはいつも裁判の傍聴席にいるY常務理事の姿は無く、弁護士さん2人のほかになんと、記念会の経営コンサルタントという方が打ち合わせの部屋に入っていくではありませんか! 公益性を持つ団体なのに、経営コンサルタントが表に出てきてはおしまいよ、と思うのは私だけでしょうか。
( 裁判や打ち合わせの内容は、市川房枝記念会組合ニュース・市川房枝記念会の未来を語る会のホームページ、ブログをご覧ください)
4月30日(月・振り替え休日)
今日は「自由と生存のメーデー07 プレカリアートの反攻」の集会とサウンドデモに参加。
プレカリアートとは不安定な階級、反攻は守勢にあったものが攻勢に転ずることと申しましょうか。
集会会場には「婦選会館を本来の姿に!」の署名用紙を置かせてもらいました。デモでは1921年(大正10年)の第2回メーデーに初めて女性が参加した赤瀾会の複製旗(黒地に赤で WR ― RED WAVE ― と書かれている)を掲げて、大久保、新宿界隈を歩いてきました。
若者の企画らしくサウンドDJ車を先頭に、小躍りする人、時給を上げろなどと叫ぶ人など、思い思いの意思を元気にぶつけていましたが、私はただ小旗を掲げ、黙々と歩きました。かつて中野好夫先生が原水爆禁止運動の広島・長崎行進で隊列にまじってご自分の戦争責任を問いつつ黙々と一人歩いていらした姿をとても美しく思ったので、デモに参加するときはいつも真似をしているのです。それが私の意思表示です。
5月1日(火) 今日が、本当のメーデー。
最近、我が家の写真を整理していたときに、市川先生をはじめ婦選会館の職員と共に絵画館近くのメーデー会場で撮った写真が出てきました。
多分、1961年か2年頃だと思います。今の婦選会館建設のため、市川先生のご自宅に建て増ししたところに仮事務所がありました。狭いところでしたから、息抜きにメーデー見物に行こうということになったのだったと思います。建設募金の会計実務をしていらしたBさん、出版担当のKさん、Mさん、主に英文を担当されていたFさん、先生の秘書だった旧姓Oさん(現Kさん)アルバイトの私。そうそう現常務理事のYさんも写っています。大学で労働法を学んだというYさん、この時、労働者、労働運動をどうように感じていたのでしょう。
晩年の市川先生の5月1日は、参議院議員会館におられることが多かったです。
この日は、国税庁の高額所得者の発表の日でもあったので、前日にマスコミから「政治家の所得について談話がほしいから」と所在確認があるので、議員会館に待機しているのです。先生は4階の議員室の窓からメーデー行進を見ていました。お昼になると「少し歩こうか」といって新橋駅近くの土橋コースの行進の列に加わって、霞ヶ関ビルまで行き食事をするという慣わしになっていました。
先生の自然体のメーデー参加でした。
5月3日(木)憲法記念日
今日は、地元の9条の会(平和を育てる地元9条の会)の呼びかけで、最寄り駅から区役所のある区内中心地N駅前集会までのピースウォークに参加。沿線の各駅から合流して参加者が増えるのがうれしい。区の9条の会の呼びかけ人である市民運動家・市川記念会M理事長にお会いできたら、婦選会館のようすを伺いたいなと思っていましたが、お姿はありませんでした。無念。
歩きながら、市川先生が結婚のお祝いによく「憲法 第24条 夫婦同権」と色紙に書かれていたことを思い出していました。
家に帰って、日本婦人有権者同盟機関紙1946年10月号の主張欄「新憲法の成立と婦人」を読む。そこには、日本国憲法第14条、24条、44条を掲げ「男女平等を實現する根本要件は、婦人の實力、婦人の教養を、私共は此の機會に再認識し、すべての努力はその方向に向けられねばならぬ事を強調するものである。」と結んでおられました。
続いて機関紙を見ていると、1962年11月号の機関紙の主張欄に「婦選会館と有権者同盟」と題して婦選会館の事業計画について「第一には婦人の政治教育、公明選挙、理想選挙の普及徹底となっております。それ故に自治省の所管となった次第です。この目的事業は日本婦人有権者同盟と同様なので、実施する時は、両者と理想選挙普及会も加えた三者の共同主催とすることにしたいと思います。」「婦選会館は有権者同盟に事務所や集会の場所を提供し、調査、研究や、図書室を利用していただいて同会の発展に協力しようとするものです。若し同盟の会員が増加し、現在の事務室が狭くなったら拡張することも可能です。」と婦選会館の理事長であり同盟の会長であった市川先生は書いておられます。
事業の目的を力を合わせて達成しようとする、私欲の無い先生の気迫に改めて触れました。
5月11日(金)
友人から「『女性展望』5月号読んだ?」と電話あり。この5月号の最終ページ「婦選会館から」は3月31日に開催された市川記念会の理事会、評議員会でのM理事長のあいさつが載っています。「婦選会館は、近隣周辺の開発問題が新たに浮上し、耐震補強・改修工事の資金調達問題もあり、当面着工を予定していませんが、引き続き調査、検討を行ってまいります。」「来る11月には財団創立45周年を迎えます。財団の存続と再出発に向けて努力してまいりますので、この上のご支援、ご協力をお願い申し上げます。」だと。
誰に向かって理事長はあいさつをなさっているのでしょう。理事、評議員は記念会の事業の決定機関でしょう。ある一部の人で着々と事を進めているからこんな言葉が出てくるのですね。理事、評議員の個々の方々は記念会の現状を本当に把握しておられるのでしょうか。お一人お一人のご意見を伺いたいものです。現体制での再出発のどこに希望がもてるのでしょうか。
近隣周辺の開発?。以前婦選会館に張られた養生ネットをみて、「あの形で会館を晒しているのは、広告塔の役目をしているのかもしれんぜ」と言った人がいました。なるほど、廃墟同然にしておけばゼネコンが飛び付いて来るというわけでしょうか。
だから、先日の裁判の打ち合わせに記念会の経営コンサルタントのご登場と相成ったのでしょうか。
色々思い当たる疑問が出てきます。
このページの理事長の言葉の中によく、「誠実に」とか「財団存続」という言葉がでてきます。何に対して誠実なのか。財団存続の中味は何か。注目していくことにしましょう。
5月14日(月)日本国憲法の改正に手続きに関する法律成立
「今、政府・与党が企んでいることのやり方と市川記念会のやってること同じじゃない!」と吐き捨てるようにいった友達の声が耳に残っています。
事ほど左様に、耐震診断、婦選会館の使用禁止、有権者同盟への立ち退き要求、職員の退職勧告、解雇、事業の“特化“、縮小・・・と決めながら、しゃあしゃあと、耐震補強・改修工事は当面の予定はしていませんと言ってのける手合い、そして近隣開発の浮上を持ち出し、そこに相乗りすることを匂わせるとは、全くその様相です。記念会の確たる信念はどこにいったやら。
5月15日(火)沖縄復帰の日、市川先生のお誕生日
今日は、市川先生とは一度も面識がない方ですが、婦選会館のことをとても真剣に考えてくださる方とお会いしました。これは先生のお引き合わせでしょうか。
ここで、銀座の交詢ビル(財・交詢社のあるビル)も耐震診断の結果を理由にテナントの立ち退きが問題になったことを伺いました。耐震診断は本来人の安全に配慮しての対策ですが、排除の手段に使われることが多々あることが解りました。それに加えて市川記念会は職員の解雇までやってのけたのです。
交詢社には思い出があります。1966年、評論家中野好夫氏、政治評論家長谷部忠氏と市川先生の3人を代表幹事とする学者、研究者、学識経験者で政治資金規正協議会という会が結成されました。その2年ほどたった時でしたか、佐藤栄作内閣が第5次選挙制度審議会の答申を得て政治資金規正法改正案を提出して来たとき、同協議会はザル法の政府案に反対声明を出すことになって、その声明文の原案を長谷部先生がお書きになり、私が原稿を戴きに伺ったのが交詢社でした。
その原稿には「このような得手勝手な法案は、政治資金規正の野放図化を助長するものであり永久に抹殺すべきである」と書かれていました。交詢社の教養に満ちたサロン、重厚な趣きのなかで宝物を戴いたような気分で帰ってきました。
最近、ラジオを聞いているとよく「千の風になって」という音楽が流れてきます。
♪お墓の前でな泣かないでください。♪眠ってなんかいません。♪千の風になっておおきな空を吹きわたっています。
亡くなられた方々の想い、そしてその方々が遺された言動が、今を生きている者に影響を及ぼしているようで、初夏の気持ちよい風を受けているこの頃です。
しばらくブログをお休みしていました。
そのわけは、婦選会館の耐震問題の正当性を私なりに少し調べてきちんとした考えを述べてみたいと思っていたのですが、ひどい風邪で怠け癖が着いてしまって、こころならずもご無沙汰をしてしまいした。
そんなこんなをしているときに、3月22日、日本婦人有権者同盟でながいこと事務局でご苦労をされた、H・Tさんが亡くなられたとの報に接しました。病気で退職を余儀なくされましたが、最後まで中央委員として有権者同盟に関わりを持ち、同盟を愛していらした方でした。
Hさんは同盟の大田支部に所属され私も同じ支部の会員でした 。初めてお会いしたのは1965年の市川先生の参議院議員選挙の時でした。当時先生は東京地方区での選挙で各地の支持者が道案内を買って出て選挙カーを動かしました。私はその選挙カーの車長、Hさんは道案内と“うぐいす嬢“役で一日一緒に過ごしました。拠点拠点を要領よく押さえた演説場所選びの手際のよさや、理想選挙の意味、意義を説くHさんの話術と、マイクによくのった聞き心地のよい声は今でも覚えています。その数年後に同盟の事務局に入られ、30余年、事務局の仕事全般に亘っての地道な働きは運動の大きな支えでした。
事務局としてだけではなく、常任委員としても同盟らしい運動をよく心得ておられ、殊に法律を学んだ知識を生かし選挙制度の問題に力を注がれ、定数是正問題、最高裁裁判官の国民審査のあり方などに対しては同盟の生き字引的存在だったのです。
それにすこぶるアイディアウーマンでした。衆議院に小選挙区が導入された1996年10月20日の選挙のあとのことでした。Hさんから「有権者の一票は活かされいるか、当選した議員の支持率を調べたいので一緒にやろう」と話がかかりました。「ああ、面白そう」というわけで、2人で300選挙区の300人の当選者が、その選挙区の有権者からどの程度の支持を得たのか、逆に言えばどれだけの有権者が議員を送り出せたのかという調査をすることになりました。
その結果、簡単に言えば、最低の支持率で当選したのは静岡1区の13.2%、最高でも富山2区の50.7%、全国平均26.2%の支持しか得ていないことが解りました。政党別にみても小選挙区では自民党22.4%、新進党16.0%、民主党6.1%、共産党7.3%、社民党1.2%…、比例区では自民党18.6%、新進党16.0%、民主党9.2%、共産党7.4%、社民党3.6%…という支持率でした。
これで、いかに死票が多いこと、また選択肢が少ないことで有権者の一票が活かされていない選挙制度だということが、数字を持ってわかりました。
役所の発表する候補者同志の得票率よりはるかに有権者の立場に立った、支持率(Hさんは代表度ともいっていました。)という計算方法を、Hさんは考え出したのです。
また、Hさんはこれを同盟の総会で会員に説明するために、おおきな画用紙を折ったり曲げたり伸ばしたりして説明したことが目に浮かびます。
その後、何回かの選挙で調査を重ねました。この支持率という言葉は同盟会員だけでなく、同盟の運動を通してもっともっと一般に浸透させ定着させていいのではと思います。
2002年2月、参議院憲法調査会で『国会の在り方と二院制』をテーマに公聴会があった時に、Hさんは公募に応じて公述人に選ばれました。すでに大きな病を抱えていらっしゃいましたが「私は一有権者として国会に対する一般の声を述べてみようと思いました」と語り、参議院議員選挙にみられる民意の反映は、有権者の政党に対する支持率と政党の獲得する議席率が比例しておらず、有権者の意思が正しく反映されていないこと等、調査をふまえた持論を披瀝されました。この熱意には頭が下がる思いで傍聴していた私の胸にグッとくるものがありました。
いつもコツコツと机に向かって仕事をしていましたが、時には舌好調の駄洒落の連発で、まわりの人をなごませる一面もありました。長い病気と付き合いながら、山登りをし、語学勉強を兼ねて中国旅行に出かけたり、多くの仲間たちとの付き合いも実に楽しそうに参加されていました。
そういえば私に市川記念会に組合が出来たことを教えてくれたのはHさんでした。おなじ屋根の下で働いている仲間として折々に記念会のことを話題にしていました。
ここ1年半ほどお会いする機会がなく、記念会の職員の解雇問題や婦選会館の立ち入り禁止、それに伴う有権者同盟がおかれている現状は手紙などでお伝えしていましたが、ゆっくり話し合う時を持てなかったことが残念でなりません。病から開放された今、静かに見守っていていただきたいと切に願っています。ひとまずさようなら、Hさん。

まずは、左の書をご覧ください。1月7日、あらためてこの書を見ながら、かつて私が、ある冊子に書いた冒頭部分をまずご紹介したいと思います。
「婦選実現の春」市川房枝先生のこの書を見ていると、しみじみとした喜びが伝わってくる。
長い戦前の婦人参政権獲得要求運動を経て日本女性がはじめて「参政権」を得たのは、終戦の年、1945年12月17日、衆議院議員選挙法の改正が公布されたことによってである。婦人参政権、すなわち選挙権および被選挙権を女性がはじめて行使したのは翌46年4月10日のことである。
市川先生が、この「婦選実現の春」と書かれたのは、その46年のお正月7日、千葉県山武郡蓮沼村でまだ疎開生活をしていた私の母を訪ねてきて下さった時のことで、敗戦から5ヶ月もたっていない時である。市川先生と母はお互いの無事を確かめあい、ポツダム宣言受諾して以後めまぐるしく変化していく日本の状況と行く末を語りあったにちがいない。
そして婦人が参政権を得たことの喜びと希望と今後女性は何をすべきかを市川先生は力強く語られたであろうことが目にみえるようだ。・・・(『えぽっく・めいかー』7、1995年3月)
この書から今年は61年目。今年の「春」に希望があるのだろうかと考え込んでしまいます。
今年いただいた賀状には、市川記念会問題に対する一筆を書き添えられていらっしゃる方がたくさんおられました。「思えば思う程、会館の目指すものが理解できないのです」「行く末を案じております」「同盟はどうなるのでしょう」「よい結果が出るといいですね」「内輪もめをしているときではないのに、残念です」などなど。皆さん心配しておられるのだなあと改めて感じ入りました。この声、この思いを市川記念会の理事さん、評議員さんたちがどう受け止めるかが今年一番の課題です。
お正月、ひとつ嬉しいことがありました。若い友人たちが、アメリカの女性とフィリピンの男性をつれて我が家を訪ねてきてくれました。ささやかなおせち料理を喜んでくれ、一時の酒宴で盛り上がりました。
「ところで、彼女に婦選会館のこと話してあげてくださいよ」と、私にこのブログの立ち上げ方を教えてくれた彼にうながされ、私はアメリカ女性にひとしきり市川記念会のことや、市川先生がアメリカの婦選運動の指導者のアリス・ポールに出会ったことなどを話ました。
「ワタシモ、ショメイシテイイデスカ。アメリカニカエッタラミンナニイイマスヨ」と達者な日本語で元気に彼女は言ってくれました。続いてフィリピンの彼も屈託なく署名をしてくれました。バンド仲間をもつ日本の女性も、近い日にみんなが集まるからと署名活動を引き受けてくれました。
なんと気持ちのいい人たちでしょう。国は違っても、立場を超えてすぐに自分の問題として捉え、みんなの問題として考えて行動に移そうとする若い人たちに接して、一人でも出来る活動の根源として見習わなくてはと思いました。
女性団体のみなさん、そして記念会のあの人に睨まれたくないと思っている方、記念会と同盟の問題だ、労使間の問題だと捉えておられる方々、どうか本当の「婦選実現」の拠点である婦選会館を私たちみんなの手に取り戻そうではありませんか。
今日は、1月8日、成人の日です。この日を「新有権者の日」と意味づけたわけを再確認しようではありませんか。
12月25日午前、婦選会館を本来の姿に!署名活動連絡網世話人のYさん、Mさんと私の3人は、市川記念会仮事務所に、皆様からお預かりしていた111名分の署名を届けにいってきました。
仮事務所のドアがほんの少しあいていたので、どなたか居られる筈なのに、チャイムを押してもどなたもでてきません。ドアをたたくとやっと隙間からお顔がみえました。でもその方は、それ以上ドアを開けることはありませんでした。
Mさんが「あら、Sさんじゃない」というので、改めてお顔をみると、かつて日本婦人有権者同盟の職員でいらして、後に時々婦選会館でボランティアで手伝っておられた方でした。今は、退職勧奨や解雇された職員のあとの仕事を補っていらっしゃるようです。
昔から変わらぬお顔はにこやかでしたが、拒絶の姿勢がありありでした。
「話を伝えてください」「何も解りません」のやりとりをドア越しに繰り返してしていると、薄暗い廊下を事務局長が歩いてくるのがみえました。事情をはなすと「どうぞ」と事務所の中に入れてもらえました。立ったままでしたがしばらく私たちはそれぞれに思いを事務局長に伝えました。事務局長からは「理事会が決めたことですから」との言葉が返ってきました。
そう、その理事会で決めたことの再考を促す署名を今日まで全国から集め、それを届けに行ったのです。2回目に署名を届けたあと理事長から「後日行われます理事会、評議員会で皆さまにご紹介いたします。」との書面をいただいていたのでさらに「理事会、評議員会で検討されたのか伺いたいと、理事長にお伝え願いたい」と頼んできました。
8月、解雇された職員が、仮事務所に就労の意思表示と私物を取りに行ったときには、常務理事がドアチェーンをつけたまま顔を覗かせ決して中に入れなかったと聞いたことを思い出しました。この日は、Yさんがドアを閉められないように、ちいさな足の靴が一生懸命ドアを抑えていたのを後ろで私は見ていました。帰途、Yさんに「悪徳、新聞購読勧誘員の要領だったわね」といって笑ってしまいました。このような市川記念会の対応は、なにやら物悲しくかつ滑稽な光景でありました。
今年も残り少なくなりました。風邪気味だったり、怠け心も含めて何やかやあって、すっかりご無沙汰してしまいました。
まとめて日記風に振り返ることにしました。
12月5日(火)
いよいよ「市川房枝記念会の不当解雇事件」の裁判が始まりました。第1回審理は、本日午後4時、710号法廷で行われ、私は緊張しながら傍聴をしてきました。710号法廷は50席あり、他の法廷より少し広いところのようです。原告側の席には原告のMさん、Oさんと弁護士さん2人が着き、被告席に市川記念会の弁護士さん2人のみで理事長の姿はなく、被告席に近い傍聴席の一番前に常務理事が控えていました。まず、原告弁護士さんの訴状の説明があり、続いて原告2人の意見陳述になりました。Mさんの陳述を聞きながら、職員に対する記念会の無情・非情さが伝わってきました。Mさんの感情を押し殺したような言葉一つ一つにに記念会の理不尽さがにじみ出ていました。
この時、ふと、市川先生が亡くなられて、3人の民主政治をたてなおす市民センター職員と秘書2人、計5人が失職することになった時のことを思い出しました。センター職員の1人はK常務理事の引きで、秘書の1人はどのような話で決定したか解りませんが当然のように当時の財団法人婦選会館の職員になりました。私に対しては、市川先生の冨士霊園へご遺骨を納めたその日に、常務理事であり、先生亡き後、理事長職務代行になられたWさんから、私の今後を聞くでもなく「あなたのペイは、出せません。」と引導をわたされました。ああ、市川先生が亡くなられればこんなものかと思いながらも寂しくもあり、いったいなぜ、私がこのようなことを言われなければならないのかと抗議をしました。もっとも、市川先生の亡くなられた直後の婦選会館の空気は、一部の人が作り出した異常なもので、私は、はなから再就職を願い出る気持ちはありませんでしたが、Mさんの陳述を聞きながら、今日もそれを引きずって、一部理事らの意に添わない人を排除する姿勢があることを思い知らされました。
Oさんは陳述の最後を「婦選会館を次世代に継承していくことは、婦選会館を拠点として活動してきた者の責務ではないでしょうか。私はそのために職務に復帰する日を待ち望んでいます。」と力強く結びました。直接、市川先生と接したことのない彼女たちが、市川精神をきちんと受け継いでいてくれることに、わが身の不甲斐なさを思いつつ感謝の気持ちでいっぱいになりました。
(この日の裁判審理の様子は、『市川記念会の未来を語る会』のブログに全体のことが、『市川房枝記念会くみあいニュース』ブログに原告2人の意見陳述の全内容が掲載されていますので、左記からリンクしてご覧になってください。)
次回裁判は、2007年1月29日(月)午後1時15分 東京地裁 710号法廷です。是非、傍聴を。
12月12日(火)
あさ、新聞をめくると、すぐ広告欄に「市川房枝」の文字が目に入りました。
「週刊朝日」12月22日号、ワイド この人たちの「一分」として「市川房枝記念会で起きた女性『不当解雇』騒動」とあるではありませんか。
一体、だれの「一分」が書かれているのでしょうと急いで購入、早速目を通しました。「故・市川房枝氏は何を思う・・・記念会で女性職員解雇紛争」という見出しでした。週刊誌というものは、何を書かれるのかちょっと心配なところがあり、当事者にとってはちょっとした内容にも不満が残るものですが、この記事を読んで、記者が裁判を傍聴しているらしいことと、えげつない記事でなかったことに一安心。にこやかな先生のお顔が婦選会館の写真と一緒に載っているのをみて「先生の大岡裁きが頂きたいですよ」と話しかけました。
12月14日(木)
朝食がすんでしばらくすると電話が鳴りました。「週刊誌見ましたよ。裁判は長引くのでしょうか。いい結果がでるといいですね。」
「市川記念会理事さんたちも、も少し若い人と代替わりをしないと」「講座がなくなって、勉強が出来なくなっただけでなくみんなと話をする機会がなくなり寂しいですよ」などとたてつづけにおっしゃり電話は切れました。記念会のやり方に憤懣やるかたなき感情が抑え切れなかったのでしょう。
12月17日(日)
今日は婦人参政権獲得記念日(1945年12月17日衆議院議員選挙法改正公布による)
会合があって久しぶりに外出。女性団体の会ではないのに、週刊誌の反響はたいしたものです。会う人ごとに声を掛けられました。
「市川さんとこ大変そうね」「どうなっちゃったの」「私も集会や勉強をしに行ったのでとても残念」「困ったはなしだね」「あなたは大丈夫なの」・・・いったい何人の方と話をしたことでしょう。今日の会は、ある詩人を偲ぶ会だったのですが、私のまわりは、しばし、市川談議や、耐震問題、職員解雇の話などの輪ができました。私も、私なりの「一分」を披露しました。
記念会にも納得できる「一分」を期待したいですね。
11月10日、「市川房枝ルネッサンス」のつどい第1回企画として、憲政記念館で行われている「女性参政60年特別展」(2006年10月26日~11月17日開催)を見て語ろうという呼びかけがあったので行ってきました。この日、10月末日で市川記念会から退職を余儀なくされたHさんも参加されるということをうかがい、お目にかかって10数年間のお仕事の慰労の気持ちを申し上げたいともおもいました。
この特別展に際して、市川記念会は多くの資料の提供をしています。Hさんは記念会の窓口として係わっておられていたそうで、ご自身はひとしおの思い出で特別展をご覧になったことでしょう。
憲政記念会では、1993年2月~3月にかけて「近代日本の女性と政治特別展 ―婦人参政への歩み― 」が開催されており、その時も見に行きましたが、今回の「女性参政60周年特別展」はそれに続くものといえます。
入館の際にいただいた『展示目録』を見ると、特別展開催にあたり「女性の参政権獲得から高度経済成長による社会進出の増加、国際婦人年世界会議を契機とした女子差別撤廃条約調印を経て、男女雇用機会均等法制定、男女共同参画社会基本法制定に至るまでの歩みを関係資料によって紹介し」と書かれていました。また、これを受けたように阿部恒久・共立女子大学教授が「女性参政60年特別展によせて」と題して女性と政治について解説をされておられ、「今後『均等』『共同参画』の方向はいっそう強固なものになっていくであろうし、外交・軍事・開発といった分野においても、リーダーシップをにぎる女性が数多く登場してくるであろう。女性参政60年がそれに弾みをつけることを願ってやまない。」と結んでおられます。
弾みをつけるべきこの時に、市川記念会は、婦選会館の改修の展望を示さないままの一時閉鎖、事業の特化という名の縮小、なんとも残念な現実です。(もっとも、男女共に軍事に弾みはつけて欲しくないですが。)
市川先生は、よく講演で「婦人参政権『獲得』というと、猛獣が獲物を捕らえるようで恐いから、収穫の『穫』の字にしようとの意見があったけれど、とにかく獲得しよう。実りを収穫するのはその後のみんなの努力で達せられる」という意味のことをおっしゃっていました。
そこで先生の自伝をひもとくと、1925年婦人参政権獲得期成同盟会が婦選獲得同盟と改称された総会でのことが書かれています。
「・・・議事の第一は、名称を短く『婦選獲得同盟』と改称することであった。私どもは婦人参政権を『婦選』と呼ぶことにした。これは辞書にもない新語であるが、短いし、それに『普選』と同音なので、『普選』はまだ完成されてはいない、『婦選』が残っているのだ、という抗議の気持ちをこめて、会名に使うことにしたわけである。」「・・・(T氏が)獲得の獲はケモノヘンで、爪で引っかいてとることをあらわしていて穏やかでない、ノギヘンの収穫の穫にしてはどうかと提案し、次の総会で議案として提出したが、獲得こそが目的ではないか、と直ちに否決された。」また、こんなことも書かれています。「議事の第二は、目的の中に獲得だけでなく一般婦人に対する政治教育の一項を加えたことである」「『目的を婦人参政権獲得とその行使のための政治教育に限る』こと・・・を含んだ婦選獲得同盟宣言を・・・満場一致で可決した。」と。
たしかに戦後、民主化は進み、女性の地位向上のための法制度の改廃はめざましく進んだといえるのでしょうが、近年の日本の社会を取り巻く状況は、戦争への加担、憲法、教育基本法の改変、共謀罪の設定など、女性のみならず、主権者の人権、生活を脅かす状況にあるとをいわざるをえません。60年、本来、成熟した還暦を祝うべき年月ではありますが、民主化を活かしきれないままに、干支を一巡りして、元の木阿弥にならぬようにしなくてはならないとあせりのような気にかられます。市川先生のおっしゃる獲得後の収穫という名の実りを育て、自らのものとすることは、いまを生きている私たちに託されているとおもうのです。ここにもまた「権利の上に眠るな」の言葉が蘇ってきます。
さて、この日、特別展で、女性で初めて“国民栄誉賞”をうけた美空ひばりさんのドレスの展示には度肝を抜かれましたが、これも女性参政の結果の多彩な活動の結果なのでしょうか。一方、戦後初の女性団体として設立され、「創設者市川房枝氏の婦選獲得運動の後継団体」である日本婦人有権者同盟の、独自の活動の軌跡がないことに少々落胆しました。
同じ婦選会館を活動の拠点とする市川記念会の政治教育事業と、同盟の女性の地位向上や議会制民主政治の確立のための運動の連携が、確たる穫(みの)りとなることを願ってやみません。
10月6日、東京飯田橋の東京しごとセンターで、「市川記念会の不当解雇」提訴報告と、それを支える「市川房枝記念会の不当解雇を撤回し、婦選会館を再生させる会(略称・市川房枝ルネッサンス)」の設立の集会がありました。大変風雨の強い日で外出がためらわれるようでしたが、連れ合いが「参加者が少ないと気の毒だから一緒に行こう」と言ってくれて、夕方2人で家を出ました。会場は、定刻には用意された席がほぼ埋まり、皆さんの熱意がうかがわれました。
この集会で、学んだこと、感じたことなどをいくつか。
その1 まず学んだこと。10月3日提訴した訴状の説明をされた弁護士さんによると、使用者側の都合で解雇される整理解雇の場合、①人員整理を行う経営上の必要性があるのか ②解雇回避の努力をしたか ③解雇のための客観的公平な人選基準とその基準の公平な適用がなされたか ④解雇理由を職員・組合に誠意を持って説明したか、また協議を尽くしたか これを整理解雇の4条件といい、多くの裁判で確立されているとのことです。考えてみれば当然のことのようですが、それすらきちんと行っていない市川記念会理事会の責任と誠意が問われます。
その上、市川記念会は、かつて組合・職員が東京都労働委員会に不当労働行為救済申し立てをした際、救済命令が出たにもかかわらず
中央労働委員会に再審の申し立てを行いました。その結果、組合・職員との和解が成立し、①組合への頭越し行為を繰り返さない ②労働条件の変更の際は組合と誠実に交渉するという約束があるのです。この和解が成立したのが昨年の9月末ですから、市川記念会理事らは、よもや忘れてはおられますまい。
その2 考え込んでしまうこと。集会参加者の意見交換の中で発言された中に、ボランティアの問題がありました。8月10日の4名の解雇、それに続く10月末に退職勧奨を受けている2名、計6名の解雇により記念会の通常の仕事は常務理事、事務局長と職員1名で行う由。あとは、ボランティアの協力を得るということです。常務理事、事務局長、職員1名の報酬、給与は確保し、ボランティアの協力を見込んで他の職員全員の首切りはあまりにも乱暴なやり方です。
記念会にとってボランティアの協力が大切なことは充分承知しています。しかしせっかく市川先生の御遺志を継ぐ団体でのボランティア参加をなさる方にも、記念会の現実をしっかり把握してほしいものです。「お金がないならしようがないじゃない。だから、無償で手伝う」では、今後の記念会の事業はジリ貧で終わってしまうのではありませんか。
どうも、私には、この点、うまく自分の気持ちを表現できません。多くの記念会の無償の協力者のお顔が浮かんでくるので、とても言いにくいし、決して否定するのではありませんが、労働権、生活権の確立を脅かす立場をどう考えればいいのか。正社員と非正社員、パート労働、派遣社員、契約フリーターなど、それにボランティアとなると、労働を取り巻く問題は複雑です。これらに関して労働問題の研究者のご意見を伺いたいところです。言うまでもなく、根源は、記念会の場合、理事さんたちの事業推進のための覚悟の問題であるのですが。
先日、M理事長にお会いした際、景気の恩恵を受ける筈の少ない財団と思っていましたが「バブル景気の時だったから採用出来た」とおっしゃっていたことに驚きました。バブルが去れば首切りですか。いまやバブルどころか「いざなぎ景気の再来」だそうですからそのお言葉通りなら話は違います。
その3 思い当たること。ある参加者から、理事会や記念会の運営に主導権を持たれている一部の人の支配が強すぎるのではないかという発言がありました。私は思わずパチパチと拍手をしてしまいました。管理主義、秘密主義、上からものを言う傾向、人の排除と懐柔策、などなど。折々の言動に私自身、思い当たることがあるのです。その積み重ねが、今日の記念会の現実を導いたように思います。
その4 最後に、弁護士さん以外のただ一人の男性参加者の我が連れ合いの感想は、「耐震問題が、即、人員整理となりゃ、これは、男女の別なく重大な労働問題だぜ。もっと労働界が注目する必要があるんじゃないのかな」ということでした。
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提訴報告から話はすすんで、「市川房枝記念会の不当解雇を撤回し、婦選会館を再生させる会」の設立となりました。
この会は略称を「市川房枝ルネッサンス」といいます。
ルネッサンスとは、13~15世紀にヨーロッパに波及した芸術、思想上の革新運動であり、中世文化から人間中心の近代文化への転換を
なしたもので、『復興』『再生』を意味するものです。「婦選会館を本来の姿に!署名活動連絡網」は、別働ではありますが今後、この会と連絡を取り合い情報交換をしながら活動が出来ればいいと考えます。
それにしても、先生!ずいぶん洒落た名前がつきましたね。
以下に「市川房枝ルネッサンス」の発足趣旨、目的、会費などを紹介します。ご賛同、ご支援、ご参加をお願いいたします。
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「市川房枝記念会の不当解雇を撤回し、婦選会館を再生させる会(略称・市川房枝ルネッサンス)」(代表 田中かず子・国際基督教大学教授)
<発足の趣旨> 婦選会館は、「女性の政治教育を行う場所」(市川房枝)です。ジェンダーバッシングや経済のグローバル化により、女性の基本的人権が危うくなっている今こそ、市川房枝の志を発展させ、女性の政治教育の拠点として、情報の発信基地として事業を継続させる必要があります。女性参政権運動の歴史を次世代に伝え、若者が政治について考え語り合う場としての役割も重要です。さらに、女性運動に携わる人々が、婦選会館を拠点として、男女平等社会実現のための真の協力体制をつくらなくてはなりません。
私たちは、市川房枝記念会が職員の解雇を撤回し、皆の力を結集して婦選会館を再生させ、職員が誇りをもって働ける職場とするために、この会を設立します。
<活動目的> 1、市川房枝記念会の不当解雇を撤回させること。 2、婦選会館を女性の政治教育および教育学習の場として再生させること。 3、そのために必要な知恵とお金を集めること。
<会費> 年会費 1口 2000円 団体年会費 1口 3000円
<事務局> 〒151-0053 東京都渋谷区代々木1-19-7 横山ビル2F
女性ユニオン東京気付
TEL/03-5352-666630 FAX/03-3320-8093
郵便振込口座 00140-6-501966 市川房枝ルネッサンス
10月3日、市川房枝記念会から解雇通知を受けた、Oさん、Mさんが解雇は無効として、労働契約上の地位保全の訴えを東京地方裁判所に起こしました。
同日、司法記者クラブで記者会見をするというので見聞にいってきました。
私はこの記者会見場に強い思い出があるのです。
1992年9月28日午前、ラジオを聞いていると東京佐川急便から5億円の政治献金を受け取ったことを認めた金丸信自民党副総裁が20万円の罰金で略式起訴されたという速報があり、これで一連の佐川急便事件の政治資金関係の捜査が終結したと言っているではありませんか。
これはおかしい。金丸氏は、この5億円を派閥(竹下派)の同志60数名に陣中見舞いとして配分したといっているのです。東京地検の捜査は、金丸氏が政治献金を受け取ったところまでで、それを配分したことについて追及していないのです。
当時、私は市川先生亡き後、民主政治をたてなおす市民センターを改組した市川房枝政治資金調査室の室長をしていました。
この調査室は、運営委員に市川先生の下で政治資金の調査をした元秘書らがなり、引き続き政治と金の調査をおこなっていたのです。
そこで、私は早速、運営委員のKさん、Yさんらにラジオ報道の内容を説明して、私たちで告発して引き続き金の流れを追及できるようにしようと提案しました。
ところが、Yさんはあっさりと「あなた一人でやれば」とおっしゃるのです。Kさんも「Yさんの賛成が得られないのなら止めておいたら」とのことでした。本来、このようなことこそ調査室としてやるべき仕事と思ったのですが、ふだんから仕事のやりにくさを感じていましたから、私は「それなら一人でやります。でも私が調査室で日頃調査をしていることは言いますからね」と念を押しておきました。
細かい経過は省きますが、翌29日、東京地方検察庁に告発人は私。被告発人は金丸信衆議院議員と自由民主党・竹下派(経世会)所属氏名不詳国会議員60数名で政治資金規正法違反として告発状を提出したのです。
そしてその足で、事前に連絡をしておいた司法記者クラブに告発状の写しを届けに行ったところ、記者会見場は多くの記者さんやテレビカメラが並んでいて会見席に案内されました。このような場所になれない私は、随分おどおどしていたとおもいます。かなり緊張して告発した理由を話しました。
この告発をはじめに、市民の高まる政治不信のなかで弁護士や市民グループの告発が相次ぎました。
(告発の結果は、東京地検特捜部により不起訴になりましたが、さらに私は東京検察審査会に不服審査申立書を提出。その結果は、不起訴は不当との判断が出されました。地検は更に捜査をすることになりましたが、やはり不起訴になってしまいました。でもその捜査の過程で闇献金、ゼネコンとの癒着、金丸氏の蓄財の実態等が明らかとなり事件は思わぬところに発展しました。)
こんなことを思い出しながら、記者会見を待っていました。
はじめに弁護士さんから提訴にいたる経緯の説明があり、続いて、原告のMさんは「市川記念会の突然の事態にいかがわしさを感じている。この裁判で記念会が情報公開していないことがらが明らかにされることを期待する」と、Oさんは「生きがいである仕事と生活の糧を奪われたこと、女性の地位向上を掲げる記念会が事業の特化を理由にリストラするとは納得できない」などと話されました。
お二人とも実に堂々としていました。
会見場には、お二人の女性ユニオンの仲間たちが数名みえていました。自らも労使関係に問題を持っておられる方も応援に参加されていたようです。これらの支えがあるからこそ力強く提訴ができたのだとおもいます。
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第1回目の裁判は、12月5日(火)午後4時から東京地方裁判所、710号法廷で行われます。
原告2名の意見陳述があるとのことですから、ご都合のつく方は是非傍聴をしていただきたいです。
9月18日、署名が500名を超えた時点で、署名活動の世話人Mさんが、記念会理事長に署名を届けたい旨の電話をしました。すると理事長は「署名簿は郵送してほしい」とおっしゃったそうです。Mさんがさらに「お目にかかってお渡ししたい」というと「一人では決められない」とのこと。結局、Yさんは20日に再度電話をしてご都合を伺うことにしました。
20日の理事長とYさんとの電話のやりとりは、おおむねこんなことだったようです。
「署名は郵送してほしい」「皆さんから預かった署名なので是非、お会いしたい」「事務所の誰かに預けてほしい」「常務理事は、居られるのか」「居るかどうかわからない」「ふだん、婦選会館に来ないのに」「国会でも会うのは一番初めだけだ」 というわけで私たちに会う時間を作ってはくださいませんでした。
署名活動の世話人3人対しては「婦選会館に来ない人がやっていることだ」と常務理事が言っていたと、ある女性団体の方からも聞いたことがあります。もう、私たちのことなど、共に仕事をした仲間だとは思わず、過去の人間として処理されているのでしょう。
以前、こんなことがありました。戦前の婦人参政権獲得運動に参加されたことのある方が、上京され、婦選会館近くのホテルに泊ったのを機に、会館を訪ねた時のことです。「まあ、生きた化石」。小さな身体で、齢を重ねてはおられますが、耳はしっかり聞こえます。でもそこは筋金入りの明治の女と申しましょうか、ご本人は聞こえないふりをなさってその場をやり過ごしたそうです。以後上京されても婦選会館に足を向けることはありませんでした。付き添われてきたご家族が「おばあさん、その後も一言もその話にふれなかった」と、今でもおっしゃいます。
私は、個人を非難して言っているのではありません。市川先生亡き後の婦選会館を運営しているかたがたの中に、ご自身が必要ないと思われた人物を遠ざけ、切り捨てる傾向があるのではないかということを言いたかったのです。
もうひとつ理事長の「国会でも会うのは初めだけ」とおっしゃる意味を理解しかねます。それは国会に提出する請願のことをおっしゃっているのでしょうか。もし、そうだとしたら、「市民運動家」の肩書きを持つ、理事長の自殺行為的発言です。
1976年、市川先生は、ロッキード事件の視察で渡米後、アメリカのコモン・コーズのような、国会と市民を結ぶための団体として政治団体「民主政治をたてなおす市民センター」を設立されました。そして、市民の立場から民主政治を考えようと、①政治と金、②選挙制度、③きれいな選挙推進、④議会と国民を結ぶの4つのグループをつくり、それぞれ調査、話し合いをしていました。
「議会と国民を結ぶ」では、国会への請願のあり方を考え、国会の最終日に短時間で、採択か継続審議か審査未了を決めるのではなくもっと親切な扱いをすべきで、請願審査委員会のようなものが必要ではないかなどが話し合われていました。
市川先生自身、参議院議員時代、紹介議員となった請願に対し、出来るだけ多くの議員の目に触れるよう、何度も「公報」に掲載されるように、お預かりした請願を小分けにして提出するようにと指示をされていました。ですから、私も開会中の国会では、毎朝請願課に行くのが日課でした。また出来るだけ多くの紹介議員を得るために賛同してもらえる議員に声を掛ける努力もしました。
先生は日頃から「請願は、国民の要求を議員に知らせるとともに議員教育でもあるのだ」とおっしゃっていました。
なにも、私たちの署名を国会請願と比較するわけではありません。ただ誠実に扱ってほしい。誠意をみせてほしいということをわかってほしいのです。市川記念会が、このような大きな事業内容の変更に直面したとき、理事会、評議員会の決定で進めるのではなく、今まで婦選会館のために尽くした人など、広く多くの人の意見を聞く機会をつくることが必要だといっているのです。
結局のところ、9月27日までに集まった600名の署名は、理事長、常務理事、事務局長の不在の事務所で、一人の退職勧奨を受けなかった職員に手渡すことになりました。どうか切り捨てないで、検討をして下さいと理事長宛の手紙を添えました。後日、理事長から、世話人3人に宛てた「ご持参くださいました署名簿は、後日行われます理事会、評議員会で皆さまに紹介いたします。」と手紙をいただきました。10月28日には評議員会があったと聞きましたが、果たして署名に関する話し合いはあったのでしょうか。
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10月末日までに退職勧奨を受けた2人の職員が退職されました。ぎりぎりまで忙しい仕事で休日出勤までした結果が、退職だったとは。
9月16日、朝早く私と連れ合いは東京駅で友人と待ち合わせ、3人でまず静岡で大杉栄氏の墓に詣で、つづけて名古屋の覚王山日泰寺で、橘宗一少年墓碑保存会が主催する墓前祭に参加してきました。
宗一少年は、1923年9月1日の関東大震災の直後、16日、叔父にあたる大杉栄、伊藤野枝夫妻と一緒にいて、憲兵隊甘粕大尉らに殺害されたのです。当時満7歳でした。父親の橘惣三郎さんはアメリカ在住の貿易商でした。母親のあやめさんは大杉さんの妹です。母と共に日本に帰ってきた際のあまりにも惨い死でありました。
父親の建立した墓碑にはこう彫られてあります。表に「Mr.M.Tachibana Born in Portrland 12th 4.1917.USA/吾人は須らく愛に生べし 愛は神なればなり/橘 宗一」裏に「宗一(八歳)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三年)九月十六日夜、大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル/Build at 12th 4.1927 by S.Tatibana/なでし子を 夜半の嵐に た折られて あやめもわかぬ ものとなりけり/橘 惣三郎」
この墓碑は、宗一さんが殺された5年後に建立されました。父親の無念の思いに今もって心を打たれますが、あの時代によくこのような墓碑が建てらたものと、父上の覚悟と、石屋さんの勇気にも感動します。そのためでしょう、ずっと人知れず、草むらに隠れ時代を見つめていたのです。
この墓碑を見つけたのが、婦選会館発行の『婦人展望』の購読者であり、地方調査員をしてくださっていたNさんでした。
地方調査員とは、『婦人展望』の地方ニュース欄に地方の女性問題を載せるため、各地の読者の中から地方調査員としてお願いし、新聞切抜きなどを送っていただいていました。
Nさんは、東海地方を担当して下さっていて、1972年、新聞の切り抜きと共に朝日新聞「ひととき」欄に投稿したNさんの記事も同封されていたのです。それは、「愛に生きる」と題したもので、ご自宅近くの日泰寺周辺を犬と散歩していて宗一さんの墓碑を見つけられた時の感動が綴られていたのです。
婦選会館出版部のKさんから、この記事を見せてもらった母は、墓碑保存に立ち上がりました。
大杉さん、野枝さんと我が家は祖父母の時代からご縁があり、特に父は共に生活し、大杉夫妻亡き後は、残され子供たちの養育金の捻出に心を砕いておりました。
母は、大杉さんにご縁のある方、名古屋の人権問題に係わっておられる方々たちと一緒に募金活動を始めました。愛知県出身の市川先生も大変関心を持ってくださり、婦選会館、有権者同盟の方々にも御協力していただきました。
婦選会館は、人と人を繋ぐ場でもあったのです。
宗一さんの父上が墓碑を建立してから58年の月日を経て、1975年9月から毎年墓前祭が行われ、今年は第32回の墓前祭でした。私は母の死以後から毎年参加してもう25年になります。
今年は、墓前での法要の後の記念講演は地元名古屋の教授の「戦後労働運動を語る」というもので、会場は名古屋女性会館でした。
講演後の懇親会で、みんな一言発言を求められた時、私は「地震というものは天災とは別に大きな力が人に災いを齎すもので・・・」と話し始め、名古屋女性会館と婦選会館、戦後の労働問題と市川記念会の退職勧奨と重ね合わせ、署名活動をしていることをはなし協力を求めました。
名古屋には、市川先生の選挙の際に、東京から行った選挙カーの道案内をしてして下さった方などがたくさんいらっしゃり、婦選会館のこと、婦選会館の方々のことをよくご存知の方がいらっしゃるので、一所懸命聞いていただくことができました。
それから半月もたったころ、名古屋のIさんから、名古屋で私の話したことを紹介して下さった通信誌とともに、ご自分で作られた署名用紙で集めて下さった署名が送られてきました。
嬉しいことでした。