9月16日、朝早く私と連れ合いは東京駅で友人と待ち合わせ、3人でまず静岡で大杉栄氏の墓に詣で、つづけて名古屋の覚王山日泰寺で、橘宗一少年墓碑保存会が主催する墓前祭に参加してきました。
宗一少年は、1923年9月1日の関東大震災の直後、16日、叔父にあたる大杉栄、伊藤野枝夫妻と一緒にいて、憲兵隊甘粕大尉らに殺害されたのです。当時満7歳でした。父親の橘惣三郎さんはアメリカ在住の貿易商でした。母親のあやめさんは大杉さんの妹です。母と共に日本に帰ってきた際のあまりにも惨い死でありました。
父親の建立した墓碑にはこう彫られてあります。表に「Mr.M.Tachibana Born in Portrland 12th 4.1917.USA/吾人は須らく愛に生べし 愛は神なればなり/橘 宗一」裏に「宗一(八歳)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三年)九月十六日夜、大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル/Build at 12th 4.1927 by S.Tatibana/なでし子を 夜半の嵐に た折られて あやめもわかぬ ものとなりけり/橘 惣三郎」
この墓碑は、宗一さんが殺された5年後に建立されました。父親の無念の思いに今もって心を打たれますが、あの時代によくこのような墓碑が建てらたものと、父上の覚悟と、石屋さんの勇気にも感動します。そのためでしょう、ずっと人知れず、草むらに隠れ時代を見つめていたのです。
この墓碑を見つけたのが、婦選会館発行の『婦人展望』の購読者であり、地方調査員をしてくださっていたNさんでした。
地方調査員とは、『婦人展望』の地方ニュース欄に地方の女性問題を載せるため、各地の読者の中から地方調査員としてお願いし、新聞切抜きなどを送っていただいていました。
Nさんは、東海地方を担当して下さっていて、1972年、新聞の切り抜きと共に朝日新聞「ひととき」欄に投稿したNさんの記事も同封されていたのです。それは、「愛に生きる」と題したもので、ご自宅近くの日泰寺周辺を犬と散歩していて宗一さんの墓碑を見つけられた時の感動が綴られていたのです。
婦選会館出版部のKさんから、この記事を見せてもらった母は、墓碑保存に立ち上がりました。
大杉さん、野枝さんと我が家は祖父母の時代からご縁があり、特に父は共に生活し、大杉夫妻亡き後は、残され子供たちの養育金の捻出に心を砕いておりました。
母は、大杉さんにご縁のある方、名古屋の人権問題に係わっておられる方々たちと一緒に募金活動を始めました。愛知県出身の市川先生も大変関心を持ってくださり、婦選会館、有権者同盟の方々にも御協力していただきました。
婦選会館は、人と人を繋ぐ場でもあったのです。
宗一さんの父上が墓碑を建立してから58年の月日を経て、1975年9月から毎年墓前祭が行われ、今年は第32回の墓前祭でした。私は母の死以後から毎年参加してもう25年になります。
今年は、墓前での法要の後の記念講演は地元名古屋の教授の「戦後労働運動を語る」というもので、会場は名古屋女性会館でした。
講演後の懇親会で、みんな一言発言を求められた時、私は「地震というものは天災とは別に大きな力が人に災いを齎すもので・・・」と話し始め、名古屋女性会館と婦選会館、戦後の労働問題と市川記念会の退職勧奨と重ね合わせ、署名活動をしていることをはなし協力を求めました。
名古屋には、市川先生の選挙の際に、東京から行った選挙カーの道案内をしてして下さった方などがたくさんいらっしゃり、婦選会館のこと、婦選会館の方々のことをよくご存知の方がいらっしゃるので、一所懸命聞いていただくことができました。
それから半月もたったころ、名古屋のIさんから、名古屋で私の話したことを紹介して下さった通信誌とともに、ご自分で作られた署名用紙で集めて下さった署名が送られてきました。
嬉しいことでした。